会期:2024年10月19日[土]~ 12月15日[日]
前期:10月19日[土]〜11月17日[日]
後期:11月19日[火]〜12月15日[日]
開館時間:11時~18時 ※金曜日は19時まで開館 ※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日 ※11月4日[月・休] は開館(翌5日休館)
会場:泉屋博古館東京(東京・六本木一丁目駅)
毀誉褒貶にさらされ美術史から零れ落ちた「展覧会の申し子」
尾竹三兄弟の真価を、今を生きる私たちの眼で見極めよ!!
尾竹越堂(おたけ・えつどう 1868~1931)、竹坡(ちくは 1878~1936)、国観(こっかん 1880~1945)の三兄弟の画家を、東京で初めて紹介する展覧会。
尾竹三兄弟は、明治から昭和にかけて文部省美術展覧会をはじめとした多くの展覧会で成功を収め、まさに「展覧会芸術の申し子」として活躍したものの、竹坡を筆頭に実験的ともいえるラディカルな表現を試み、また時にエキセントリックな生き方を貫いた尾竹三兄弟は毀誉褒貶にさらされ、美術史の語りから零れ落ちた。
展覧会制度の光と影のなかで、新しい日本画の可能性を示した彼らの革新的かつ魅力に溢れる作品は、きっと今の私たちの眼にも新鮮に映るはずだ。
重要作や新出作品、未公開資料を通じて彼らの人と作品を探る。展覧会制度のなかで躍動した三兄弟の作品を一堂に会すことで、「展覧会芸術」の到達点をぜひ目撃してほしい。
尾竹国一(越堂)《役者見立壇浦兜軍記・阿古屋琴セメの段》 1891(明治24)年 富山市売薬資料館【後期展示】
新潟の染物屋に生まれた熊太郎(越堂)、染吉(竹坡)、亀吉(国観)の三兄弟は、「国石」の号を持つ父・倉松から絵を学んだ。越堂は幼少期に東京で四代歌川国政に師事したと伝えられ、明治15年には南画家の笹田雲石が尾竹家に滞在し、竹坡や国観はこの雲石から作画の基礎を学び、それぞれ号を授かっている。
明治22年に越堂が富山に移り、最盛期を迎えていた売薬版画や新聞の挿絵を描いて家計を助けると、竹坡と国観も兄を支えながら早熟な才能を発揮する。国観は12歳で児童画コンクール1等賞を受賞し、竹坡とともに「少年画工」として知られるようになる。その様子を鏑木清方は「見知らぬ地方の少年達を羨まずにはいられなかった」と伝えている。
その後、竹坡と国観は本格的な絵画学習を志し、国観は小堀鞆音に、竹坡は川端玉章に師事。挿絵の経験を活かし、竹坡は四条派由来の写生表現を、国観は堅牢かつドラマチックな歴史画を追究し、展覧会で受賞を重ねていく。
「第1章「タツキの為めの仕事に専念したのです」―はじまりは応用美術」では、3兄弟の助走時期の作品を中心に紹介する。
尾竹国観《油断》(上/右隻、下/左隻) 1909(明治42)年 東京国立近代美術館【前期展示】
明治40年に文部省美術展覧会が創立されると、第3回出品作の国観《油断》が最高賞を、翌年の第4回展出品の竹坡の《おとづれ》が二等賞を受賞し、彼らは一躍人気作家となる。越堂も明治32年の富山大火を経て大阪から上京、43歳で遅咲きの文展デビューを果たした。
竹坡は「文展は広告場」と明言。横山大観や下村観山ら東京美術学校を卒業した「学校派」に対して、三兄弟は地方から上京し、明治に到来した展覧会システムを活用して画名を高めた、まさに「展覧会芸術の申し子」といえる。特に竹坡は作風を変えながら大衆の人気を集めたが、無鑑査となった第6回文展では一人で6曲2双を3点も出品して会場を占拠し、批判を浴びることとなる。
「第2章「文展は広告場」―展覧会という乗り物にのって」では、富山時代の挿絵画家としての技術と柔軟な表現力で、尾竹三兄弟が画壇に名を轟かせていく様子を紹介する。
尾竹国観《絵踏》 1908(明治41)年 泉屋博古館東京【通期展示】
本展の目玉のひとつは、キリシタンの絵踏の場面を描いた国観の《絵踏》。乳飲み子から老夫婦、武士に農民、宣教師と思われる白人、中国人物まで、総勢41名の群像が描かれる。明治41年(1908年)に国画玉成会の展覧会に出品されたものだが、懇親会において、審査員の選からもれた兄・竹坡が岡倉覚三(天心)を面責したため、竹坡は除名、国観も兄に従い退会することになり、展示中だった同作を会場より撤去したという、いわくつきの作品。
本作が2022年に国観の遺族から寄贈された際は、裏打ちのないまくり状態だった。国画玉成会出品時は裏打ちをせずに仮額へ直接張った状態で掲出されたと考えられ、当時の展示状況を伝える上でも貴重な作品。修理と表装が完成し、本展が初公開となる。
尾竹越堂《漁樵問答》(上/右隻、下/左隻) 1916(大正5)年 個人蔵【後期展示】
明治末以降、尾竹三兄弟は巽画会や文展で活躍を広げ、竹坡と国観は岡倉覚三に将来を期待されていた。しかし岡倉と対立後は日本美術院とは道を分かち、文展での活躍を期すものの、大正2年の第7回文展では落選、これに対し彼らは「文展落選展覧会」を開催して反発。さらに竹坡は大正4年に衆議院議員選挙に立候補し、落選はしたものの、美術行政の改革を訴えた。
この時期に三兄弟の主な発表の場となったのは門下生たちを集めた画塾展、明治45年に竹坡の門下生たちによって発足した「八火会」や、越堂と国観も加わった「八華会」などによる展覧会だった。特に竹坡は大正9年からの「八火社」展で79点中59点を描き、この時期に新しく日本へともたらされた未来派から着想を得た、従来の日本画から逸脱する新感覚の画風を展開し、テーマも歴史から労働や抽象へと移行していく。
「第3章「捲土重来の勢を以て爆発している」―三兄弟の日本画アナキズム」では、八火社に出品された前衛的な作品を通じて、奮闘する三兄弟の姿を紹介する。
尾竹竹坡《月の潤い・太陽の熱・星の冷え》 3幅 1920(大正9)年 宮城県美術館【前期展示】
尾竹三兄弟は日本画革新運動に関わりつつも、日本美術院との確執や文展の落選により画壇から弾かれ、徐々に歴史から忘れられていくのだが、大正期には反骨精神と高い画力を活かし、新たな日本画の可能性を示していた。
昭和期には竹坡と国観が官展への返り咲きを目指し、作風を発展させ、竹坡は写実的な構成へ、国観は堅牢な歴史画へと進化していく。竹坡は第4回帝展で日本画、彫刻、洋画を同時に出品し、既存の枠にとらわれない奔放さを示した。長兄の越堂は展覧会から距離を置きながら新潟で活動し、昭和2年の東京都美術館設立に尽力した。
「第4章 「何処までも惑星」―キリンジの光芒」では、晩年の展覧会出品作を中心にそれぞれの展開を紹介し、衆議院の落選以降借金のために濫作に陥ったといわれる竹坡をはじめとする三兄弟が、新しい画境を求めて奮闘する様子を見せる。
尾竹竹坡《大漁図(漁に行け》(右は部分) 1920(大正9)年 個人蔵【前期展示】
住友家第15代住友吉左衞門友純(号春翠)は、明治末から大正にかけて尾竹三兄弟と親交を結んだ。明治42年に竹坡の第3回文展出品作《茸狩》を購入し、翌年には第4回文展出品作《棟木》も購入。大正期には竹坡の巽画会出品作《九冠鳥》、国観の《助六》、越堂の《花筏》、および第8回文展に出品された越堂の《さつき頃》など多くの大作を次々と購入している。
また、明治43年12月には大阪の料理店灘萬楼で慰労会を開催し、越堂や竹坡、国観を招待。三兄弟は即興で筆を揮い、揮毫した24点を参加者に分けるなど、盛況な会となった。この交流は春翠が亡くなる大正15年まで続き、昭和2年には越堂から白衣観音の軸が贈られた。特集「清く遊ぶ―尾竹三兄弟と住友」では、作品購入を通じて始まり、単なる注文主と制作者を超えた交流を紹介する。
尾竹竹坡《九冠鳥》(上/右隻、下/左隻) 1912(明治45)年 個人蔵【後期展示】
岡倉覚三や日本美術院と道を分かち、美術史にその名を刻むことのできなかった不運さはあるものの、これほどの画力を持つ画家三兄弟が埋もれたままであったことは信じ難い。
時代が移り、まっさらな目で見られる現代の私たちにこそ、彼らのその真の価値を見極める絶好の機会ではないだろうか。ぜひ会場に足を運び、のちの世に語り草になるであろうこの画期的な展覧会を目撃してほしい。
入館料
一般1,200円(1,000円)、高大生800円(700円)、中学生以下無料
※20名様以上の団体は( )内の割引料金
※障がい者手帳等ご呈示の方はご本人および同伴者1名まで無料
TEL 050-5541-8600(ハローダイヤル)
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