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田中一村 展 奄美の光 魂の絵画

更新日:9月19日

会期:2024年9月19日[木]〜 12月1日[日]
開館時間:9時30分~17時30分(金曜日は9時30分~20時) *入室は閉室の30分前まで
    土日・祝日および11月26日[火]〜12月1日[日]のみ日時指定予約制

    ※当日の空があれば入場可。

    ※11月22日[金]までの平日にご来場の場合は、日時指定予約は不要です。

休室日:月曜日、9月24日[火]、10月15日[火]、11月5日[火]

    *ただし、9月23日(月・休)、10月14日(月・祝)、11月4日(月・休)は開室


会場:東京都美術館 企画展示室
展覧会公式サイト https://isson2024.exhn.jp

田中一村 肖像   Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

田中一村 肖像  Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama



代表作をはじめ近年発見された初公開作品も多数出品する、最大規模の回顧展!!


 田中一村は、明治41年(1908)7月22日、現・栃木市に生まれた。5歳で東京に移り、彫刻師の父から「米邨(べいそん)」の号を受け、幼少より絵画の才能を発揮。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科にストレートで入学するも、わずか2か月で中退という波乱のスタートを切る。それでも新興文人画展への出品や頒布会開催など、精力的に画家としての活動を展開した。

 初期の作品は、当時の流行である中国近代の文人画の影響が色濃く見られるが、力強い筆致や独特の構図など、若き才能が光る作品も数多く残されている。20歳ごろまでに、独自のスタイルを確立し、完成度の高い作品を描き出すようになり、画家としての地位を確立しつつあったことがうかがえる。


「菊図」 大正4年(1915) 紙本墨画淡彩 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

「菊図」 大正4年(1915) 紙本墨画淡彩 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 家族の不幸が重なり、何度も転居し苦心しながらも米邨は、社会や画壇の状況をにらみ方向性を探っていた。20代半ばからは、南画との決別とみられていた時期だが、実際には新しい関心のもと、様々な作品を描き続けていたことが最近の研究で明らかになっている。

 力作の《椿図屏風》をはじめ、従来の資料の再評価も進み、本展では、近年新たに紹介された作品が多く展示される。


「椿図屏風」 昭和6年(1931) 絹本金地着色 2曲1双 千葉市美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

「椿図屏風」 昭和6年(1931) 絹本金地着色 2曲1双 千葉市美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 27歳の若さで父を亡くした一村は、30歳で千葉市に移住し、農作業や内職をしながら絵を描き続けた。周囲の支えもあり、展覧会に出品する作品だけでなく、デザインや仏画など、様々な絵画制作に励む。これらの作品は、画家の生業としての側面を具体的に示しており、当時の画風や志向を読み解く上で貴重な資料となる。


「白い花」 昭和22年(1947)9月 紙本金砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

「白い花」 昭和22年(1947)9月 紙本金砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 昭和22年(1947)、「柳一村」と画号を改め、川端龍子主宰の青龍展に《白い花》を出品し初入選する。南宋の詩人陸游の田園憧憬の詩「遊山西村」(山西の村に遊ぶ)の一節を典拠とした画号で、詩句を刻んだ印も捺された。

 昭和30年(1955)、47歳の頃、一村は石川県の「やわらぎの郷」の聖徳太子殿の天井画制作という大役をこなし、大きな充実感を得る。その後、九州や四国を巡る旅で新しい題材を発見し、大きな転機を迎える。しかし、日展や院展での落選が続き、大きな挫折を味わう。その失意の中、一村は昭和33年(1958)、50歳を迎え、画家としての将来に悩み、ついに奄美大島への移住を決意する。


「奄美の海に蘇鐵とアダン」 昭和36 年(1961)1月 絹本墨画着色 田中一村記念美術館蔵  Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

「奄美の海に蘇鐵とアダン」 昭和36 年(1961)1月 絹本墨画着色 田中一村記念美術館蔵

Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 昭和33年(1958)12月、50歳の一村は、昭和33年に奄美大島に移住。島内を巡り、国立療養所奄美和光園の官舎に間借りし、風景や人々を描き、積極的に創作活動を行う。しかし、経済的な困難から、2年後に千葉へ戻り、療養所の国立千葉療養所の所長官舎で絵を描き続けることになる。


「岩上の磯鵯」 昭和34、35年(1959、60) 絹本着色 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

「岩上の磯鵯」 昭和34、35年(1959、60) 絹本着色 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 自らの覚悟の甘さを認識することになった一村は、昭和36年(1961)、不退転の決意で再び奄美へ渡り、紬工場で働きながら絵画制作のための資金を貯める。連作を計画し、写生や画材にもこだわり、制作に没頭。しかし、昭和40年(1965)には生涯の理解者川村幾三氏や姉が逝去。工場を辞めてからは、より一層絵画に打ち込み、奄美を代表する作品を数多く生み出していった。

 昭和42年(1967)から45年(1970)までの3年間、制作に没頭する間に生まれたのが、《アダンの海辺》をはじめとした奄美における主要な作品だったとみられる。それは誰のためでもなく、自身の内なる声に耳を傾け、自分の良心だけをとことん突き詰めた制作で、一村はついにそれを自らの力で実現したのだ。


「アダンの海辺」 昭和44年(1969) 絹本着色 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

「アダンの海辺」 昭和44年(1969) 絹本着色 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 一村は、昭和52年(1977)9月11日、奄美で引っ越したばかりの畑の中の一軒家で夕食の支度中に心不全で倒れ、69歳の生涯を閉じた。彼は晩年の奄美での制作を「閻魔大王への土産品」と表現し、生涯の創作活動に満足していたことがうかがえる。精魂込めて描いた大作だけでなく、知人に贈った小品や色紙にも、一村の絵画に対する情熱と思想が詰まっている。これらの作品群は、孤高な画家としての彼の生涯と、その作品が今に残る奇跡を物語っている。


「不喰芋と蘇鐵」 昭和48年(1973)以前 絹本着色 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

「不喰芋と蘇鐵」 昭和48年(1973)以前 絹本着色 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama




観覧料(税込):一般2,000円、大学生・専門学校性1,300円、65歳以上1,500円

●土曜・日曜・祝日及び11月26日(火)以降は日時指定予約制(当日空きがあれば入場可)

●11月22日(金)までの平日は日時指定予約は不要です。

※高校生以下無料。

※身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添いの方(1名まで)は無料。

※身体障害者手帳等のお手帳をお持ちの方とその付添いの方(1名まで)・高校生以下の方は、日時指定予約は不要です。直接会場入口にお越しください。

※高校生、大学生・専門学校生、65歳以上の方、各種お手帳をお持ちの方は、いずれも証明できるものをご提示ください。

※毎月第3 土曜日・翌日曜日は家族ふれあいの日により、18歳未満の子を同伴する保護者(都内在住、 2名まで)は一般通常料金の半額(住所のわかるものをご提示ください)。日時指定予約不要、販売は東京都美術館チケットカウンターのみ。


 
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