ひきつけるカタチとコトバ―看板・引札にみる明治の商い
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- 5月5日
- 読了時間: 7分
2026年4月25日[土]〜6月21日[日]
前期:4月25日[土]〜5月24日[日] 後期:5月26日[火]~6月21日[日]
※前期と後期で一部資料の展示替えをします
開館時間:午前10時~午後5時(入館締切は午後4時30分)
休館日:毎週月曜日(ただし、5月4日は開館)、5月7日[木]
会場:たばこと塩の博物館 2階特別展示室
看板・引札・たばこ商の広告資料など約200点!!
江戸から明治への商いの激変を、当時の実物資料で魅せる展覧会!!

引札 (絵びら、たばこ店の図) 尾竹国一 画
店名を入れる前の引札。宣伝競争が最盛期を迎えたころのたばこ屋の店頭。多種多様な商品看板であふれている。
これぞ“たば塩”! 誰もが心躍らせる楽しい展覧会が始まった。
明治時代になると政治は大きく変化したものの、人々の暮らしや商売は急に変わったわけではない。江戸時代のやり方を土台にしながら、少しずつ新しい工夫や変化が加わり、だんだんと今につながる形へと発展していった。
店の看板やチラシ(引札、ひきふだ)もまた明治では規制がなくなり、より目立つデザインに変わっていく。金属や絵の具など西洋の技術も取り入れられ、見た目はどんどん華やかに。さらに新聞広告や街での宣伝も広がり、店や会社どうしのアピール合戦がますます盛んになった。
本展では、看板や引札、店を描いた絵、たばこ商の広告資料など約200点を通して、江戸から明治にかけて商売のあり方がどのように変わったのかを、当時の実物資料を使って紹介する。

たばこ入れ屋の実物看板(掛看板)
実物のたばこ入れと同じ素材と技法を用い、看板のように大きく仕立てたもの。
「店」という字の読み方である「みせ」や「たな」は、商品を見せるための台「見世棚(みせだな)」から来ている。室町時代の風俗画には、すでに見世棚を設けた店舗が並ぶ⻑屋が描かれている。
江戸時代には、店と住まいを一緒にした町家が京都や江戸で発達し、各地にも広がった。明治時代になると、商家への建築規制がなくなり、町家建築は豪壮さを増していく。
看板はすでに平安時代の市で使われていたようだが、形や工夫が進んだのは江戸時代以降。明治時代には江戸時代の形を受けつぎながら、庇(ひさし)の上に掲げる看板の大型化、軒行灯(のきあんどん/ガス灯)の登場など、新たな要素が加わっていった。

「東京自慢名物会 薬種化粧品問屋 せと物町 きの国や斎藤」 梅素薫 図案 福田熊次郎 版 1896 年(明治29)頃
道路に垂直に設ける江戸時代流と平行に設ける明治時代流の「屋根看板」が併存している様子が描かれている。
看板は、形によって「建看板」「置看板」「掛看板」などに分けられる。内容で分けると、屋号や品名を文字で記した「文字看板」、取扱品などを象った「模型看板」、取扱品そのものを使った「実物看板」、洒落を効かせた「洒落看板」などがある。会場には、それぞれの代表例が展示されている。

店名入りたばこ盆 〔長命寺桜餅〕
向島名物「長命寺桜餅」の焼印が入った、升形のたばこ盆。店名や商標を記した什器(じゅうき)は、
店先などに置かれ、看板と同じような役割を果たした。
「引札」は、店が大切な得意先に配る広告で、今のチラシよりもダイレクトメールに近いものだった。内容は、日ごろの感謝を伝える「口上(こうじょう)」から始まる決まった形が多く使われていた。
また、戯作者に気の効いた宣伝文を依頼したり、文章より絵を中心にした絵びら(印刷物)を配ったりすることもあった。引札には、宣伝だけでなく、得意先とのよい関係を続ける役割もあったのだ。

引札「煙草開業売出し」 〔諸国刻巻煙草処 下谷区東黒門町八番地 堀口銀太郎〕
江戸時代以来たばこ店の暖簾は柿渋色だったため、たばこ店の引札であることが一目でわかる。
開業にあたっての口上と、末尾には開業から3日間、記念品を進呈することが書かれている。
新しく店を開くときには、客を集めるために、小さな店でも不特定多数に引札を配った。ふだんから不特定多数に引札を配るのは、大きな呉服店など一部の店に限られていた。
また、得意先に配る引札には、年末の売り出しの告知や、商品の由来、新商品の案内などがよく書かれていた。
引札の宣伝文は戯作者が担当することがあり、江戸時代には本の筆料だけで生活しにくかったため、引札執筆は重要な収入源の一つだった。古くは平賀源内の「漱石香」(⻭磨き粉)の例があり、文化文政期には浮世絵師が絵を手がけた引札も登場したが、明治前期までは絵が中心のものは多くなかった。明治になると新聞小説で生計を立てる戯作者が増えた一方、引札制作の慣行は続き、特に仮名垣魯文は飲食店向けを中心に多数の引札を手がけ、約5,000枚に及んだとされる。

「うしほ染中形初荷の景況」 『風俗画報』第283 号より 山本松谷 画 1904 年(明治37) 個人蔵
浴衣地などに化学染料の青色で型染めした東京の名産品・潮染の初荷の様子が描かれている。製造を手がける三社連合「うしほ組」が問屋の協力のもと催し、人形町から吾妻橋までを700 人ほどの行列で練り歩いたという。
明治後期に新聞広告が普及すると、引札は情報伝達より景品としての性格を強め、絵を主役にしたものが増えた。とくに正月用の引札は、縁起物や略暦を石版印刷などで色鮮やかに印刷した代表的な景品で、家に貼って長く楽しまれ、現在の名入りカレンダー配布の起源ともいえる。また正月には、引札配布とあわせて、初荷札(はつにふだ)で飾った荷車で初出荷品を得意先に届ける初荷も盛大に行われた。

「東京自慢名物会 宝丹 池之端仲町 守田治兵衛」 梅素薫 図案 福田熊次郎 版 1896年(明治29)
左上に宝丹流で書かれた「宝丹 」の字が見える。
芸者の右上に描かれた提灯には、宝丹の商標である神鏡と同じ房飾りがつく。
明治後期には、工業や流通の発達で全国展開するメーカーが増え、特約店制度を通じてメーカー主導の販売網づくりが進んだ。繊維品、ビール、たばこなどの業界では、メーカーが特定の販売店と特約店契約を結ぶことで、有利な販売網を構築。ブランドの認知度と信頼を高めるため、看板の配布や新聞広告などの宣伝活動に注力した。もともと製薬業で発達していた商品広告は他業界にも広がり、全国規模で宣伝競争が激しくなる。
明治前期の製薬業界では、守田治兵衛と岸田吟香が広告宣伝で特に活躍した。守田治兵衛は宝丹(ほうたん)の宣伝で成功し、自筆の「宝丹流」と呼ばれる書体によって商品イメージを強く印象づけた。岸田吟香は銀座の楽善堂で目薬「精錡水(せいきすい)」を販売し、新聞広告や引札を活用して宣伝したことで、現代につながる広告の先駆けとなった。

「恵比寿ビール」の看板(掛看板)〔宮内省御用達 大日本麦酒株式会社〕 昭和ネオン高村看板ミュージアム蔵
「恵比寿ビール」は日本麦酒醸造が1890 年(明治23)に発売した本格的なドイツ式のビール。
発売当初から特約店を通じ、新聞広告を駆使して売り出された。
特約店制度のもとでは、メーカーは特約販売店に自社商品看板の掲示を促し、看板は販売店に販売されていた。一方で、メーカーは新聞広告にも費用をかけ、全国の特約店一覧を載せて販売網の広さを示した。販売店自身が新聞広告を出すこともあり、広い範囲に効率よく宣伝できる新聞広告は、商圏拡大に対応した新しい時代の商売に適した手段だったといえる。

村井兄弟商会の看板(掛看板)
村井兄弟商会はアメリカ産葉たばこを使い、アメリカ式に作った「ヒーロー」をヒットさせ、1890 年代後半に急成長した。この看板には、代表的な商品を身につけた洋風の人形があしらわれている。この人形の造形看板もある。
明治後期には、岩谷松平・千葉松兵衛・村井吉兵衛ら大手たばこ業者が紙巻たばこの激しい販売競争を展開し、「宣伝合戦」と呼ばれた。各社は主要都市の販売店と特約店契約を結び、商品看板とともに製品を流通させた。複数社と契約する店では看板が並び、競争の激しさが目立つことに。さらに、引札や景物、新聞・雑誌広告、屋外広告、楽隊による街頭宣伝など、多様で先進的な宣伝手法が用いられた。

看板「日乃出」〔東京岩谷商会〕
薩摩出身の岩谷松平が、島津家の家紋を思わせる 、丸に十字の屋号を使った商品看板。村井がアメリカ産の葉たばこを使ったアメリカ式の紙巻たばこを売りにしたのに対し、岩谷は国産葉にこだわった。
ここで紹介できた資料は約200点の展示物からしたらほんのわずかだ。
封建社会から開放された商人たちの活気と工夫が伝わってくる明治の貴重かつ魅惑的な看板・引札・広告資料を一挙に目にできて、商いの変化を知ることができる、めったにない機会。
この絶好のチャンスにぜひ、とうきょうスカイツリー駅から徒歩10分の、たばこと塩の博物館を訪れてみてはいかがだろう。
【入館料】
大人・大学生 300円
小・中・高校生、満65歳以上の方 100円
※未就学児の方は無料です。また、障がいのある方は、障がい者手帳(ミライロID可)などのご提示で、ご本人様と付き添いの方1名まで無料です。




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