五大浮世絵師展 ― 歌麿 写楽 北斎 広重 国芳
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- 6月3日
- 読了時間: 10分
更新日:6月14日
会期:2025年5月27日[火]~ 7月6日[日]
開館時間:10:00〜17:00(入館は閉館の30分前まで)
休館日:会期中無休
会場:上野の森美術館
展覧会公式サイト:https://www.5ukiyoeshi.jp

浮世絵界の五大スターによる夢の展覧会が実現。
強烈な個性を持つ彼らが挑み続けた新しい表現の軌跡を、
美人画、役者絵、風景画など約140点の作品で俯瞰する。
浮世絵五大スターによる夢の競演がついに開幕!!
女性を優麗に描いた喜多川歌麿、劇的な役者絵で人気を博した東洲斎写楽、風景・花鳥・人物と森羅万象を独自に表現した葛飾北斎、名所絵を中心に浮世絵に新風を吹き込んだ歌川広重、そのユーモラスな画風で大いに存在感を発揮した歌川国芳。
美人画や役者絵、風景画など、それぞれの分野で足跡を残した5人の絵師の代表作を中心に、約140点の作品を一挙公開する。

喜多川歌麿 両国橋上橋下納涼之図(橋下の図) 寛政後期(1795-1800)頃
竪大判錦絵上下三枚続のうち下三枚続 近江屋権九郎
会場は、五大浮世絵師それぞれのエリアに分かれた五章構成。
第一章は「喜多川歌麿―物想う女性たち」。
寛政期(1789~1801)を中心に活躍した喜多川歌麿(1753?~1806)は、狩野派の鳥山石燕に学び、北川豊章の名前で役者絵を出版し錦絵デビューを飾った。
美人画で有名になる前には、版元の蔦屋重三郎と組み、博物学的な狂歌絵本『百千鳥』などを発表している。その後、美人画に傾倒し、遊女や芸者の他に、市中の人気娘(看板娘)を題材とすることで、人気絵師としての地位を確立した。
歌麿の美人画は、上半身を描く「大首絵」からさらに進んで顔のアップへと移行し、顔の表情だけでなく、首の傾げ方や指先の動きといった細部に至るまで女性のしぐさや感情を表現することに注力していることが特徴。これにより、歌麿は美人画の第一人者としての名声を確立した。

喜多川歌麿 五人美人愛敬競 兵庫屋花妻 寛政 7-8 年(1795-96)頃 竪大判錦絵 近江屋権九郎
注目作品は、《五人美人愛敬競 兵庫屋花妻》。当時江戸で評判の五人の美女を描いた揃物の一枚。この図は、判じ絵(絵や文字で意味を当てさせる絵)になっており、「兵庫」髷(まげ)、「矢」、「花」、逆さまの「松」の葉から「兵庫屋花妻」と読める。花妻は、吉原角町の遊女屋兵庫屋にいた呼び出し(最上位の遊女)で、図では文を手にしている。そこにはあなたを恋しく思うときは、歌麿に描いてもらった絵を見ながら、お会いするような気持ちで眺めております、という内容が書かれている。

喜多川歌麿 教訓親の目鑑 俗二云 ばくれん 享和 2 年(1802)頃 竪大判錦絵 鶴屋金助
もう一枚の注目作品が《教訓親の目鑑 俗二云 ばくれん》。「ばくれん」とは、すれっからしでありながらも、伝法肌(でんぽうはだ)で粋な女性を指す言葉。絵に添えられた文章では、人目をはばからず、思わせぶりで不届き者、かつ奉公経験もない女性を浅はかだと批判しているが、これはお上(かみ)向けの建前とされている。実際には、絵の中で小ざっぱりとした美人が胸元を露わにしながら、勢いよく酒をあおり、茹でたワタリガニを豪快に掴んでいる。着物の柄が剣菱や男山といった銘酒の商標になっていることから、この女性が大の酒好きであることが示唆されている。

東洲斎写楽 大童山土俵入り 大童山文五郎 寛政 6 年(1794) 竪大判錦絵 蔦屋重三郎
第二章は「東洲斎写楽―役者絵の衝撃」。
東洲斎写楽は、寛政6年(1794年)から翌年までの約10か月間に約145点の錦絵を残し、江戸三座の役者絵で鮮烈なデビューを飾った絵師。活動期間が短いため詳しい経歴はいまだに不明だが、個性的でインパクトのある役者大首絵を多く残したことから、その存在は謎に包まれた絵師として知られている。
写楽の作品は、取材した芝居の公演時期によって4つの作画期に分類でき、それぞれの期で明確な作風の変化が見られる。今回展示される写楽作品の半分以上は第1期の大首絵であり、これほど多くの作品が一堂に会するのは非常に貴重な機会です。写楽も歌麿と同様に蔦屋重三郎に見出され、浮世絵の黄金期においてその存在感と異彩を放った画家のひとりだ。

東洲斎写楽 二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉 寛政 6 年(1794) 竪大判錦絵 蔦屋重三郎
注目作品は、《二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉》。寛政6年(1794)5月、都座狂言「花菖蒲文禄曽我」からの一図。ここに描かれた二代目嵐龍蔵は悪役を得意とした役者で、この芝居では、長屋暮らしの浪人・田辺文蔵のところへ取り立てに来る金貸し役。右袖をたくし上げ、睨みを利かした目つきと一文字に結んだ口、大きな鼻、その表情は強烈な印象を与えつつも、どこかユーモラスだ。背景に書き入れられたのは鸚鵡亭なる人物の賛。龍蔵を一流役者と讃え、写楽がその面影をよく捉えており、もし同世代であれば高く評価したであろうと記している。

東洲斎写楽 尾上松助の松下造酒之進 寛政 6 年(1794) 竪大判錦絵 蔦屋重三郎
《尾上松助の松下造酒之進》は、寛政6年(1794)5月、桐座狂言「敵討乗合話」からの一図。伸びきった月代(さかやき)に乱れた髪、うつろで落ち込んだ目からは、落ちぶれた浪人の寂しさと貧しさがにじみ出ている。写楽は、着物の深緑など渋い色遣いで、この役が抱える重苦しい心理を見事に表現している。松下造酒之進は、この後、志賀大七に殺されるという悲惨な運命をたどる役だった。

葛飾北斎 百物語 笑ひはんにや 天保 2-3 年(1831-32)頃 竪中判錦絵 鶴屋喜右衛門
第三章は「葛飾北斎―怒涛のブルー」。
葛飾北斎(1760〜1849)は1779年に役者絵でデビュー。彼が70歳台になった天保2年(1831)頃に発表した代表作《冨嶽三十六景》では、初期の作品と比べて色彩が豊かになっていることが特徴だ。これは絵の具の変化だけでなく、老境に入ってもなお新しいテーマや素材に挑戦し続ける北斎の探求心と凄みを示している。
また、北斎は歌川広重の有名な《東海道五拾三次之内》シリーズより約20年早く、《東海道五十三次 絵本駅路鈴》など複数の東海道シリーズを制作している。ほぼ同時期に発表された北斎の《富嶽三十六景》と広重の《東海道五拾三次之内》を比較することで、風景画という分野において、江戸時代には二人の巨匠が競い合い、人々がその恩恵を受けられた豊かな時代だったことがわかる。

葛飾北斎 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 天保2年(1831)頃 横大判錦絵 西村屋与八
見どころはやはり傑作《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》。荒れ狂う波とそれに翻弄される「押し送り舟」(鮮魚を江戸へ運ぶために使われた小型で高速な和船)が描かれており、遠景には富士山が見える。北斎は三角形の構図を駆使し、視線を誘導する効果をあえて入れている。本作は《凱風快晴)(今回未出品)、《山下白雨》と並び、《富嶽三十六景》中の三大名作と称され、高くせりあがった波の一瞬を捉えた大胆な構図が特徴。
同じ《冨嶽三十六景》シリーズの内《五百らかん寺さざゐどう》。 江戸本所の羅漢寺にあって内部が螺旋状の階段だった三匝堂(さんそうどう、通称:栄螺堂)からの眺望を描いた作品。母子や巡礼者などが、蒸し暑い堂内から外の清々しい空気に触れ、疲れを癒している様子が描かれている。板の線が中心に向かって集中し、人物の視線が奥の富士にむかって視線誘導されていることにも注目。

葛飾北斎 冨嶽三十六景 五百らかん寺さざゐどう 天保2年(1831)頃 横大判錦絵 西村屋与八
第四章は「歌川広重―雨・月・雪の江戸」。
歌川広重(1797-1858)は、火消同心を務める武士でありながら浮世絵師として活躍した。15歳で歌川豊広に師事し、当初は役者絵や美人画を描いていたが、風景画の才能を開花させたのは《東海道五拾三次之内》シリーズだ。この作品は当時の旅ブームと相まって大ヒットし、後摺りでは地名表記が変更された例も見られるが、《東海道五拾三次之内丸子 名物茶屋》は、「丸子」の表記が「鞠子」に改変される前の様子を伝える貴重な作品である。

歌川広重 東海道五拾三次之内 丸子 名物茶店 天保 4-5 年(1833-34)頃 横大判錦絵 竹内孫八
同シリーズ中の《蒲原》や《庄野》では、人物たちの会話や息遣いまでが聞えてきそうだ。広重のよさは、ただの風景画でも人物画でもなく、自然と人の営みが一体となって風俗や風情、情趣感をつくりだしている点にある。

歌川広重 東海道五拾三次之内 庄野 白雨 天保 4-5 年(1833-34)頃 横大判錦絵 竹内孫八
広重は”街道絵”のほか、江戸をはじめ各地の”名所絵”も得意とし、晩年の傑作として《名所江戸百景》シリーズがある。これらの風景画では、縦構図を多用したり、鳥瞰図や遠近のギャップを表現したり、あえてバランスを崩したりするなど、見る者を楽しませる多様な視点と構図が特徴だ。風景画として異質な竪構図をあえて取り、鳥瞰図を楽しんだり(《大はしあたけの夕立》)、手前に大胆に梅の木をはみ出させて近景と景のギャップを見せたり(《亀戸梅屋舗》)、画面への収まりのバランスをあえて崩したり(《吾妻橋金龍山遠望》)、縦横無尽の視点、視覚をもって見る者を楽しませてくれる。

歌川広重 名所江戸百景 亀戸梅屋舗 安政 4 年(1857) 竪大判錦絵 魚屋栄吉
第五章は「歌川国芳―ヒーローとスペクタクル。
歌川国芳(1797-1861)は、歌川広重と同い年。日本橋の染物屋に生まれた。広重と同じく15歳で歌川豊国に師事し、広重が風景画の巨匠となった一方、国芳は「武者絵の国芳」として名を馳せることになる。
文化11年(1814年)にデビューしたものの当初は振るわず、文政10年(1827年)の《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》で大ブレイクし、その地位を確立した。
その後は日本の英雄たちを描き、特に《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》のような三枚続きのワイドスクリーン構図で、武者絵の表現を大きく広げた。

歌川国芳 讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 嘉永 3-5 年(1850-52)頃 大判錦絵三枚続 住吉屋政五郎
国芳は武者絵だけでなく、風景画には西洋の表現を取り入れ、美人画では華美な遊女が描けない時代背景の中で、縞や格子柄のシックで粋な装いの町娘を描いて人気を博した。さらに、戯画という新しい分野を錦絵に築き上げたことも特筆される。
国芳は、庶民のニーズに応え、流行を作り出すという浮世絵師の役割を体現し、経済的に安定し始めた時代の中で、錦絵と町の人々との間に良好な関係を築き上げた。

歌川国芳 通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 浪裡白跳張順 文政末年(1827-29)頃 竪大判錦絵 加賀屋吉右衛門
《通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 浪裡白跳張順》で描かれているのは、本揃物中随一の傑作として名高い「張順水門破り」。刀を咥えて、水門の鉄格子を打ち破る張順を描く。張順は魚問屋の主人であったが、梁山泊入りし、水軍の頭領のひとりとして活躍した。その肌は雪よりも白く、浪裏をひらりと跳ぶ魚のように泳ぎの達人であったという。

歌川国芳 相馬の古内裏 弘化年間(1844-48)頃 大判錦絵三枚続 不明
国芳といえばこの《相馬の古内裏》を思い浮かべる人も多いだろう。朝廷に滅ぼされた平安時代の武将、平将門が築いた内裏の跡が舞台。廃墟となった内裏には異形のものが現れ人々を恐れさせていたが、武者・大宅太郎光国が果敢に乗り込んだ。絵の左で巻物を広げているのは将門の遺児、滝夜叉姫で、彼女は荒れ果てた内裏を巣窟として父の恨みを晴らそうと復讐を企てていた。

歌川国芳 名誉 右に無敵左り甚五郎 嘉永元年(1848)頃 大判錦絵三枚続 恵比寿屋仁兵衛
《名誉 右に無敵左り甚五郎》は、伝説的な彫刻師の左甚五郎が彫刻に囲まれて座る構図。甚五郎の作品は魂が入り、動き出すとも伝えられてきた。しかし、画面中央に座る人物は、地獄変相図の羽織や、芳桐印の手ぬぐい、座布団、そして毛づくろいをする猫といった国芳のトレードマークから、実は国芳自身が描かれていると分かる。絵師は顔を見せていませんが、その背中からは気風の良い人柄がうかがえる。

石川真澄 挑む 尾上松也「挑む 第八回 外伝」より 平成 28 年(2016) ©UKIYO-E PROJECT / KONJAKU Labo.
江戸時代の浮世絵師たちは、絵師としてのみならず、当時のメディアの最先端をも担う存在だった。本展は、常に新たな表現に挑み続けた五大浮世絵師の軌跡を紹介しており、それを俯瞰的に鑑賞することができる。
なお、会場には本展の音声ガイドナビゲーターを務める歌舞伎俳優・尾上松也を描いた石川真澄による《挑む》も特別展示されている。この絶好の機会に、ぜひともあわせて堪能してほしい。
観覧料:一般 2,000円(1,800円)、高校・専門・大学生 1,500円(1,300円)、小・中学生 800円(600円)
※未就学児無料
※小学生以下は保護者同伴でのご入場をお願いします。
※学生券でご入場の場合は、学生証の提示をお願いいたします。(小学生は除く)
※障がい者手帳(身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳)をお持ちの方とその介助者(1名まで)は当日料金から半額となります。
※当日券は会場でも販売しております。
【問い合わせ先】
ハローダイヤル(9:00~20:00)
TEL:050-5541-8600
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